西原造園の志事とは?

西原造園の「志事」に込める想いとは?


なぜ私がこの志事(しごと)をしているのか?
その訳を聞いて下さい。

こんにちは。にしはら造園の西原武です。
私はこの仕事に携わって15年以上になります。その間、様々なお客様と出会い、成長させていただきました。

永いお付き合いをさせて頂いている方で、父の代から20年近くお付き合いがある方もおられます。なぜこれだけ永いお付き合いを、今も継続して頂いているのか?それは、父という偉大な存在があったからこそです。

仕える事と書いた仕事ではなく、
志す事と書いた「志事」をする

なぜ私が、愛するお子様・お孫様を持つ、ご夫婦のために、「仕える事ではなく、志す事と書いた志事をする」を
モットーにしているのか?それには、ある理由があります…

私が、小学3年生の時です。父と母が、それまで住んでいたマンションから離れ、ついに夢のマイホームを購入しました。

そのため、私は小学校を転校することになりました。子供だったので、新しい家に住める楽しさがありました。反面、今まで通っていた学校の友達と離れ、新しく入る学校で友達ができるのかどうかという不安もありました。

そして転校先の学校で、初めてのあいさつの時にそれは起きました。

先生「じゃあ西原君。みんなに、あいさつしましょう。」教壇の前に立たされ、大勢の生徒の視線が私に集まりました。

私「………」
先生「あれどうしたの?みんなの前でご挨拶しましょう」
私「………」

大勢を目の前にした私は、なぜか挨拶をすることができませんでした。

この挨拶を逃して以来、私は小学校3年生から、中学校と7年間、誰とも口をきけず、ただただ黙って椅子に座ってすごしました。

「一言ぐらいしゃべったろ?」と思われるかもしれませんが、本当に一切、口を開くことができなかったのです。

父も母も心配しました。でも父は、何かを強制にさせたり、怒ったり怒鳴り散らすこともありませんでした。母も、心配こそすれ、きっと大丈夫と暖かく見守ってくれていました。

それもそのはず。私は学校では、口を開くことがなかったのですが、家族の前では、よく話していたからです。

今日学校で何があったかも、父と母はニコニコしながら「うんうん」と聞いてくれました。

また、私の知る限り、父が、飲み屋に遊びに出る事を見た事はなく、父は私達家族のために、休みの日に家族みんなをつれ、大きな公園や釣りやキャンプなどに連れて行ってくれました。

私はそれなりに幸せでした。

そんなある日、学校の先生に母と共に呼ばれました。何事かと思いました。

先生が話を始めると、、、

先生「お母さん。この子を一度、児童相談所で診てもらってはどうでしょうか?」先生は言いにくそうに私達にそう伝えました。

「え!?僕は、病気なんかじゃない!!なんでそんなところに行かなきゃいけないの!?」心のなかでそう叫びました。

それを聞いた母は、帰り際涙し、「なんでそんな事を言われなきゃいけないの…」そう思ったそうです。

中学も卒業を控え、次の進路をどうするか決めないといけませんでした。 父は私に、「一度家を出て、寮生活をしてみーひんか?」とアドバイスをしてくれました。

父なりに、違う環境に行って、環境が変われば、友達もでき話もするようになるだろう。そう思ったのでしょう。

というのも父は、20代の頃、海外青年協力隊でブラジルに渡り、数年間をブラジルで過ごした経験があるそうです。

父自身が環境が変わった事で多くの事を学んだという経験をしているので、それを私にも伝えたかったのでしょう。

私は、愛知県の大手自動車メーカーが運営する高校に通う事になりました。

環境が変わると私も、今までの事がウソのように、友達ができ、話をすることができるようになりました。

父は3か月に一回ほどのペースで、弟達を連れて、私に会いに来てくれました。

私もバスケットボール部に入ったり、友達と洋服を買いにいったり、ギターを始めたり、スノーボードを始めたり。
いろんな事にチャレンジしました。

余談ですが、次男は私が何かを始めるとすぐに真似をします(^_^;)

そんなこんなで、高校時代は毎日楽しくすごせました。高校を卒業後、私はその自動車メーカーの工場の作業員としてに入社しました。

職場では、機械の音がガチャンガチャンと鳴り響くだけで、作業はおよそ8時間ずっと一人で行うものでした。

職場になじめず、仕事も楽しさを見出せず、ひたすら流れ作業に追われる日々でした。

寮に帰っても一人部屋。隣はまったく知らない人。職場でも、しゃべらない機械と向かい合う。いつうつ病になってもおかしくない状況でした。この時に、小学校・中学校時代の暗黒時代を思い浮かべました。

もう、あんな思いはしたくない。

そう思い、私は気づくと、実家の父と母に連絡をしていました。耐え切れない思いで電話をした私でしたが、
きっと父も母も「なにをフ抜けた事言ってるの!もうっちょとしっかり頑張らなあかんやないの!」と厳しく突き放されるかと思いました。

しかし、父と母違っていました。父と母は「そうか。じゃあ帰っておいで!」と暖かい言葉をかけてくれました。

「そんなの甘い!」と思われる方も中にはおられるでしょう。しかし、深く滅入っていた私に、この父と母の言葉は救いの言葉でした。

そうして、再び、実家の奈良県に帰りました。

■■■■

私が戻ったころ、弟二人は自由気ままな生活を送っていました。次男はスノーボードにハマってしまい、冬になると、スキー場で働くという生活を10年間続けました。

三男は、突然東京で暮らす!と家を飛びだしていました。

なんて自由なやつらなんや。かくいう私は、父の手伝いとして、造園業を始めました。

寡黙で、職人気質な父でしたが、動くスピードと、頭の回転の速さ、手際の良さと、仕上がりの良さ。

一緒に働いて初めて気が付いたのですが、父の施工姿を見た職人さんはみんな、「お父さん、ええ職人さんやな~」と言って下さいました。

根っからの職人上がりの父は、とても筋の通った人で、まがった事は大嫌いで、どんな苦しいことも、痛いことも、口に出さず、じっと耐える我慢強い人でした。

そんな父がよく言っていたのは、「お前たちは何をやってもよい。ただし、人に迷惑だけは絶対にかけるな!」でした。

そんな父を誇りに思っていました。しかし、問題もありました。その問題とは、請け負う仕事が下請け仕事ばかりだったという事です。

何とか仕事を得てこようと、工務店や、ハウスメーカーに営業に行き、頭を下げ地道に仕事を取ってきました。

下請け仕事というのは、元請から生活費もままならない額で仕事をさせられたり、無茶な工期を差し迫ってきたりなど、苦難の連続で食べていくのがやっとでした。

ですが、下請けとは辛いもので、ほとんど元請けの言いなりです。

元請から「こうやってくれ」と言われ、その方法じゃ施主さんにも迷惑がかかるし、物理的に考えても無理なのでできない旨を伝えると、「もう施主さんにはできると言ってしまった。何とかしろ!」
と言われ、泣く泣く工事をするハメになりました。

完工して数日後、案の定クレームが発生しました。元請業者は、「あんたらの施工が問題だ!」と私たちに責任をなすりつけてきました。

そんな状態が10年ほど続きました。下請け仕事にも、もう限界を感じていました。

また、思うように仕事が安定せずに、このままじゃ家は破産するという状態にまでなりました。

私は外に働きに出る決意をしていました。とにかく、働いて安定したお金を得て、家に入れようと。そう思っていました。

しかしその前にもう一度だけ、もう一度だけなんとか頑張ってみようと、自分を励ましました。

とはいえ、一人では何もできません。そこで、私は再起をかけるために弟たちにも協力を要請しようと考えました。

当時、次男は、スポーツメンタルトレーナになるために勉強をするために神奈川県へ。三男は、営業を学ぶために千葉県に住んでいまいた。

私は、ふたりに電話をして、「このままでは、うち破産するかもしれんへん。戻ってきて手伝ってくれへんか?」と伝えました。

しかし、すぐにわかったとは言ってくれませんでした。それもそうです。破産するかもしれないのに、なぜ戻らないといけないのか?反対の立場になれば私だってそうです。

それに、どうすれば立て直すことができるかなど、何の手だてもありませんでした。明日食べるご飯をどうするか。
それを考えながら眠り、朝が来る。起きると、また明日食べるご飯をどうすすればよいか…という事を考える事の繰り返しでした。

弟に戻ってきてほしい事を伝えて3日がすぎた事。次男から電話がありました。

次男「俺、戻るわ!親父と兄貴の仕事手伝うわ!」何の手だてもないのに、戻って手伝おうという気になってくれました。次男なりに何か感じとってくれたのでしょうか。私はその言葉を聞いて、ひとまずホッとしました。

そうして次男が帰ってきてくれたので、私も今のままではいけない。何かできる事はないかと、次男と一緒に、チラシを作り、ポスティングしました。

寒い日に凍える手を温めながら、一件一件ポステインングをしました。このポスティングというのも意外と大変で、
一日に1000件を撒くだけでもうへとへとでした。

それでも、期待に胸を膨らませて電話を待っていたのですが、やはりそう簡単にはいきません。

もう限界かと思った時、次男が言いました、「兄貴!お客さんが困っている事を解決するようにしてみよや!
兄貴と親父は、口は達者じゃないけど、いつも人が困ってるのをほっとかれへんタイプやん」と。

どうやら、母の知り合いの主婦さんが実際にお庭にで困っている事があるというお話を頂いたのです。

「よしわかった。じゃあそれでいってみよう」そう言って、お庭に悩みを持つ人の為に何かできないか、新たなチラシつくりました。

すると、半ばあきらめていたのですが、じょじょに電話が鳴り始めたのです。また、初めてチラシでお電話を頂いた事にとても感謝の気持ちがこもりました。

私達を信頼して電話を頂いているんだから精一杯させて頂こうと、心の底から思いました。

父と、私と、次男の三人で工事をさせて頂き、お客様からも「絵に描いたような、誠実な職人さんは見たことない」
と父に対してお褒めのお言葉を頂きました。

私は、自分自身の事よりも、それほどまでにお客さんに喜んで頂ける、この父の息子として一緒に働ける事が何よりも嬉しく思いました。

そしてそこから、というもの順調に電話がなり始めました。見事下請けを脱却し、元請けでお客様の要望を聞くメドがたち始めたのです。

その後、千葉にいた三男も「なんか楽しそうやし、俺も手伝うわ!」と、千葉で働いていた会社をやめ、家族みんなで、にしはら造園をもっと立て直して行こうと新たな旅にでました。

■■■■

そうして1年が過ぎたころ、重大な事件が起こるのです。

父が日に日に、お腹が痛いと腹痛を叫ぶようになりました。職人気質で我慢を絵に描いた人だったので、「病院に行こう」と言っても、自力で治すと聞きませんでした。

ある日の事、父が目がかすむと言い、流石に目が見えないと何もできないので、眼科に行きました。

検査後、「何かおかしな兆候があるので、大きな病院で診てもらって下さい。」と言われました。そして、大きな病院で診てもらうと、、、、

大腸癌である事を医師から伝えられました。それも、かなり進行していたようで、余命3か月を宣告されたのです。

すぐさま、大腸がんの除去手術を行いました。しかし、父は日に日に弱っていきました。頬はこけ、つい数か月前の元気な父の姿は見る影もありませんでした。

「このままじゃヤバい…親父がおらなどうやって立て直すねん…」そんな事が頭をよぎりました。

日に日に弱っていく父を見て、私達は認めたくないものの、覚悟を決めていました。

父は医師に「病院でなく、自宅に帰らせてほしい」と伝え、自宅で父の看病をする事になりました。
あの手この手で何とかして治って欲しいと、必死に体に良いものや、栄養価の高いものを探し歩きました。

しかし癌は進行を強めるばかりです。私はもはや看病する事しかできませんでした。

とはいえ、父が元気になってまた一緒に働けるように、まだまだ父から学べるようにと、必死でチラシをまきました。

そうすると、私達のチラシを大切に保管していてくれたお客様から、「お見積りをお願いします」という仕事の依頼が入ったのです。

私が大喜びで、父に伝えました。父は、痛むお腹をこらえならが、「ここの部分はこうしたほうがええ。
このフェンスにするなら、こいつが邪魔になるから、これに変えた方がええ…」と、必死でアドバイスをくれました。

ようやくできた見積もりを持って、お客さんの元に向かうと、見事にご契約して頂けました。

その事を知って父は、ホッとした顔で天井を見ながら、ただただ休息していました。

そうして、あしたから現場に入るぞと弟達と話している時、父の容体が急変しました。

すぐさま、天理の病院に向かいました。救急車は呼ばないでくれと父は言い、自家用車で病院に行きました。今思えば、最後まで家族と一緒にいたいという思いがあったのではないかと思います。

病院に着くと、おおよその見当はついていたものの、お医者さんから言われた言葉を認めたくはありませんでんした。

「今日がやま場です。」

私は膝が崩れ落ち、弟は母と共に泣き崩れていました。

最後の最後まで一緒にいようと、その日の晩は家族みんなで、父が横になっている部屋で一緒にすごしました。

そんな中、朝7:30頃に父が私達に向かって何かを言っていることにきづきました。父の顔に耳を近づけてよく聞いてみると「早く…現場に…いかんかい…」と一言。

その30分後の8:00ちょうど、先に現場に行ってるぞと言わんばかりに、いつも家をでる時間に父は息を引き取りました。

幸いな事に家族全員で父を看取ることができました。みんな父の手を握り、残された私達は何度も何度も「ありがとう」を伝えました。

ですが、実際に最愛の人が亡くなるというのがこれほどまでに、胸が痛むものだとは思いもよりませんでした。

父の死を乗り越えて

父の人生は、私達息子を育てるために全てを注がれたような人生でした。

そんな父なき、このにしはら造園をどうやって継続するのか?どうやって明日食べるご飯を確保するか…私は途方にくれました。

どうにか、存命中の仕事はやりきる事ができました。しかし、当時の私は、あまりにも力不足でした。

正直、私は自信をなくしていました。父がいないとこんなに不安なのか。こんなにもスムーズに事が運ばないのか。
自分の未熟さを痛感させられました。

しかし、そんな時でも支えてくれたのは家族の存在です。

家族で共に仕事をしているので、父がいなくなって不安な思いをしているのは、私だけではありません。

弟達も、母もまた同じように不安なのです。

家族みんなが同じ思いをしているので、気持ちが分かり、支え合う事ができたのです。

そんな時、お客様から電話が鳴ったのです。「この雑草だらけの庭をどないかできひんか?」「また剪定をお願いできますか?」「素適なエクステリアにしたいんやけど…」「外構のブロック塀が倒れそうやからどないかできひんか?」などなど、、、それは、父の代からお付き合いさせて頂いているお客様からでした。

父は、大きな大きな財産を私たちに残してくれていました。そうです、お客様という貴重な財産です。

この時から決めました。

このままじゃだめだ!父の意志を継ぎ、下請けのような、仕える事という「仕事」ではなく、お客さんに心から工事をしてよかったと思ってもらえるように、『志す事と書いた「志事」をしよう』

こうして、父なきにしはら造園の理念をつくりました。

それが、「志事」です。

父が残してくれたお客様という財産。これから出会うであろうお客様の為に、仕える事と書いた、ただの「仕事」をするのではなく、志を持って取り組むという意味の「志事」をしようと心に決めたのです。

あるお客様は、お電話頂く前には半信半疑だったのですが、お話が進むに連れ、お仕事の事や、ご家庭のことなどを話して下さり、家族事などで共感してお話できるようになりました。

また、「ほんとに良い家族ね」とか「西原さんに出会えて本当によかった。心まで癒されたわ」と言って下さるお客様が増えました。

これも亡くなった父が、背中で志事を見せてくれたことと、母の暖かい愛情のおかげだと思います。

素晴らしいお言葉を頂けるのは、決して私達自身の力ではありません。私達はことあるごとに「本当にお客様に恵まれているな」と実感しています。

父が亡くなった今、私達は、お客様であるあなた様に育てて頂いているという感覚です。

父の人生は私達兄弟を育てるためにあったといっても過言ではない人生でした。父と母が育ててくれた感謝を胸に、今日もあなたのために志事に励みたいと思います。

 

にしはら造園代表
西原 武